スモーキングルーム第138回:料理長の誘いとホテル内の緊張が高まる
スモーキングルーム第138回:料理長の誘いと緊張高まる

「お前も来ないか」と、不意に料理長は声をかけた。彼は金ボタンに、陸路を経ての長い航海を経て訪れる新天地について語り始める。「俺の国は新しい、まあ自由な国だ」と料理長は続け、古臭い元貴族はいないと説明した。働き者には機会があると、一応そう言い添える。

「まあってなんだよ」と金ボタンが返すと、料理長は顔を背けて声を落とした。「俺はお前と戦いたくない。敵国になったら困るんだよ」と、本音を漏らす。金ボタンは筋肉で盛り上がった料理長の背中を見つめ、勝てる気がしないし、考えたくもないと感じた。「俺もだよ」と、彼は傍にしゃがみ込み、藁を摑んで根セロリの泥をこすり落とした。

「お、めずらしいな。爪に泥が入るのは嫌なんじゃなかったか、色男」と料理長が笑いかける。金ボタンは「洗えばいいし、白手袋もある」と応じ、手を動かしながらこの国の状況について語った。「この国は先の敗戦で痛い目に遭ってる。もう戦争なんてしないさ」と、きれいになった根セロリを一輪車の荷台に放り投げ、鈍い音を響かせた。

「でも、考えておく」と金ボタンが言うと、料理長は頷き、根セロリの葉を丁寧にまとめながら警告した。「おい、次に食材を投げたら張り倒すぞ」と、冗談めかして言う。この会話が交わされた頃から、厨房で流れるラジオの内容が変化し始めた。楽団の演奏やスポーツ実況から、世界情勢のニュースへと自然に移行していったのだ。

国内では各地で内乱が起きており、勢いを増す隣国に同調すべきだと訴える地域もあった。重暗い報道が流れるたび、厨房内の雑談は控えめになり、従業員たちは黙々と手を動かした。賄いの煮込みが入った深皿を手に、地下の休憩室から上がってきて報道に耳を傾ける者もいた。

しかし、誰も意見を口にすることはなかった。噂話も当たり障りのないものばかりになり、以前は大っぴらにJを罵っていた新米ドアマンが、針金がホテルを去る前に辞めていた。それなのに、Jと思しき従業員や、片親がJらしいと言われていた従業員などが、間引かれるようにホテルを辞めていく。

誰かが密告しているのではないかという緊張感と猜疑心が、従業員たちの間に澱のように溜まっていった。この静かな不安が、ホテル全体を覆い始めていた。ラジオのニュースが流れる中、厨房は以前のような活気を失い、それぞれが自分の仕事に集中するだけの空間となっていた。