1977年9月11日、田中一村は奄美の畑の中の一軒家で夕食の支度中、69歳の生涯を閉じた。千葉から単身移住した奄美で約20年。切り詰めた生活の中、奄美の風土や信仰的なものまで表現し得た独特の花鳥画連作を集大成として描くも、発表の機会もないままの急逝だった。今年の命日はそれから満49年、50回忌の年である。
一村が奄美で描き上げた「生涯を飾る最終の絵」の数々は、日本画に不向きな亜熱帯の環境で一村自身により必死に保管されてきたが、体調に不安を抱えるようになって千葉の妹のもとに託された。そして没年となる5月に一時帰葉の折、近しい人々を集めた座敷でついにその十数点が披露された。うち数点は数人に譲ることになる。
「いつか東京で展覧会をして勝負する材料にする」と、渡島当初に捨て台詞のように書き送った野心のようなものは、厳しい環境で心血を注ぎひたすらに描き続ける過程で、静かに収束していったのだろう。そうして引き取られた一点にこの《アダンの海辺》があった。最晩年の手紙の中で、どうしても譲れない2点の大作があるとした、自他ともに認める代表作だ。
《アダンの海辺》と添え状
《アダンの海辺》は昭和44(1969)年に制作され、千葉市美術館蔵となった。誰のためでもなく、自らの良心のみに従い、どこまでも突き詰めてゆくような作画は、超越的な存在に捧げる祈りのようなものとなる。この絵を「閻魔大王への土産品」だと表現したその言葉も、その表れであろう。本図を譲る段になり、添え状を一筆、墨書した。集大成の連作はいずれにもサインがない。文中にはその釈明もあるが、神仏に捧げる絵画には古来絵師個人の落款などなかった。そのことを思い出す。
祈りのような行為の結晶と空間を共有し、思いに触れたとき、魂が共鳴する感覚となろう。対象が何であれ、そのような鑑賞体験が得られた人は幸運である。奄美の自然風土と共鳴した一村とよく言われるが、そのような幸運な出会いは、準備してきた者にしか訪れない。千葉時代までの真摯な歩みを経て、その幸運を一村は自らつかみとった。
千葉市美術館と一村の15年
本連載では「奄美を描いた孤高の画家」とされてきた一村の、断絶ではなく奄美へ連続していた千葉時代について、15年の間に作品を通して新たに見えてきたことを紹介してきた。始まりは2010年に開催した「田中一村 新たなる全貌」展で、一途な人生のストーリーが注目されていたこの画家の、作品の基本情報を書き直し、歴史に残そうと志したものだった。
その反響は一村をとりまく状況だけでなく、千葉市美術館にも大きな変化をもたらし、筆者自身もずっと一村に関わることとなっている。全身全霊を傾けて開催した展覧会に、以後思いが薄れる案件などないのだが、それでもこの成り行きは予想もしなかったと当時を振り返って思う。
特に各地からの寄贈や寄託により、市美術館の収蔵資料がゼロから160件を超えるものとなったことは大きい。「地元の美術館」として情報が集まるようになり、新収蔵品の特集展示もその都度行ってきた。書簡など一村研究にとり第一級の資料や、没後の劇的な展開を物語るアーカイブも有している。
開館30周年の節目に
そして本年3月、開館30周年の年度末、開館以来の年月の半分を占める一村との関わりが、最大の転換点を迎えた。《アダンの海辺》が、当初からの所蔵者のもとから、千葉市美術館に寄贈されたのである。
図らずも、1年にわたる本連載の最後に、この大きなニュースを初披露できることをうれしく思う。美術や美術館のあり方が多様化するなかで、ただ1点の絵画が発し得る途方もない力を、一番感じてきたその作品の寄贈に、ふるえるような思いである。(千葉市美術館副館長 松尾知子)



