満蒙開拓団の慰霊式、多摩で開催 戦後80年を経て語られる記憶と苦悩
満蒙開拓団慰霊式 戦後80年で語られる記憶と苦悩 (19.04.2026)

満蒙開拓団の慰霊式、多摩で開催 戦後80年を経て語られる記憶と苦悩

戦前戦中に旧満州(中国東北部)へ農業移民として国策で送り出された「満蒙開拓団」の犠牲者を追悼する慰霊式が、4月12日に東京都多摩市の「拓魂公苑」で執り行われました。この慰霊式は、開拓団が編成された各地域で行われるケースが多い中、全ての犠牲者を対象にした唯一の集いとして貴重な意義を持っています。

1963年に建立された慰霊碑と継承される慰霊の儀式

拓魂公苑は、多摩市の丘の上に位置しています。1963年、元開拓団員らで構成される「全国拓友協会」が慰霊碑を建立し、これを契機に毎年4月に式典を開催してきました。2009年に協会が解散した後も、有志によってこの伝統が引き継がれています。

満州への移民は、1932年に「満州国」が建国されたことが発端となりました。日本の支配を確立する目的に加え、当時の国内では農村部の耕地不足が深刻な社会問題となっていた背景があります。途中からは、現在の高校生に相当する年齢の青少年義勇軍も創設されました。移民の総数は約27万人に上り、そのうち約8万人が終戦直前のソ連参戦などによって命を落としました。また、日本に戻ることができなかった残留孤児や婦人、ソ連によるシベリア抑留者も数多く生み出されました。

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逃避行で3歳の弟を「処分」せざるを得なかった悲劇

慰霊式には、最盛期には2000人もの参列者が集まったと言われていますが、戦後80年を経て当事者は減少し、今回の参加者は約60人にとどまりました。

「あと余命いくばくもないので、きょうは最後のつもりで参加しました」。東京都板橋区在住の星健一郎さん(91)は新潟県出身で、1937年に一家で満州へ渡り、1945年の終戦時には10歳でした。8月9日にソ連が参戦すると、開拓団の仲間約200人による逃避行が始まりました。父とは離れ離れになり、母が星さんや幼いきょうだいを連れて逃げる中、一番下の弟は当時3歳でした。

開拓団の幹部から「足手まといになるから置いていった方がいい」と声を掛けられた星さんは、「処分するということです。おふくろは随分渋ったけど、みんなに迷惑掛けるのは困るからと泣く泣く置いてきました。そういう子が他にもたくさんいたんです」と当時の苦渋の決断を振り返ります。

弟の名前は光正ちゃんで、写真は残っていないものの、星さんははっきりと記憶していると語りました。戦後、開拓団の団長や弟を執行した人々は責任を感じ、毎年星さんの家を訪れて仏壇に参っていたそうです。

「負け戦に駆り出されてみんな死んだんだ」という無念

横浜市の中島千代吉さん(97)は元義勇軍で、「もう満州のことを思い出すのは嫌だ」と言いながら、1970年代から約半世紀にわたり毎年慰霊式に参列しています。「自分は生きてるからね。罪悪感があるんです」と心情を明かします。当時16歳だった中島さんは、ソ連軍機からの激しい機銃掃射を受け、多くの仲間を失いました。「山積みになった死体は忘れられない。負け戦に駆り出されてみんな死んだんだ」と無念の思いを吐露しました。

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名古屋市の細井博充さん(74)の父は元義勇軍で、シベリア抑留も経験しました。漫画が得意だった父は、満州で小さな子どもたちの遊び相手となっていました。2005年に81歳で亡くなった父の告別式で、参列者の一人から「お父さんは『のらくろのお兄ちゃん』と呼ばれていた。満州で私たち一家は命を助けてもらった」と涙ながらに感謝の言葉を掛けられたそうです。ソ連参戦時、父が幼い子どもを連れた家族を軍のトラックで優先的に逃がすよう交渉してくれたことが明らかになりました。細井さんは「父は毎年、参列していた。父の気持ちを酌んで私も来ています」と語りました。

開拓団の歴史が問いかける国家と個人の関係

ノンフィクション作家の梯久美子さんは、自著で開拓団について「国の勧めに従って海を渡った農民たちは、戦後、国とは何か、国策とは何かという問いに直面せざるを得なかった」と記しています。開拓団を研究する高橋健男さん(80)=新潟県見附市=はこの言葉を踏まえ、「開拓団の歴史を知ることは、現代の私たちにとっても国家と個人の関係を問い直す意味がある」と指摘しました。

慰霊式は、単なる追悼の場を超え、歴史的記憶を継承し、国家と個人の在り方を考える機会として重要な役割を果たしています。戦後80年を経て、当事者の高齢化が進む中、こうした集いの意義は一層深まっていると言えるでしょう。