港町として栄えてきた熊本・八代が、江戸時代の鎖国前まで、国際貿易都市だったことを示す史料が、熊本大永青文庫研究センターと八代市立博物館の調査で見つかった。新史料は、同博物館の企画展で14日まで公開されている。
新たに発見された史料
熊本藩主・細川家筆頭家老だった松井家ゆかりの文書群の調査で確認された。八代城下で外国語を話せる町人について、八代町奉行が熊本藩家老に提出した報告書など4点。いずれも、幕府の鎖国政策として日本船の海外渡航が全面禁止された1635年(寛永12年)から10年余り後、47年(正保4年)もしくは翌年の慶安元年に作成されたとみられる。
外国語を話す町人の存在
このうちの1通では、外国語を話せる町人として、徳渕町の町頭、森与次右衛門の名が記される。文書には「天竺(てんじく)の内かぼうちやと申す所に拾ヶ年程罷(まか)り居り申し候(そうろう)」「唐口も少は存じ奉り候、尤(もっと)もかぼうちや近所の唐人とは折々付き合い申すに付」などと書かれており、かぼうちや(カンボジア)に10年ほど居住した経験があり、唐人(中国人)とも交流があったので、唐語も少し分かるという内容だ。森がカンボジアに渡り、現地人や唐人と貿易を行っていたことが分かる。
輸入品売買ネットワーク
また別の1通には、いずれも森の親戚で、八代城下町に住む袋屋瀬兵衛と薬師玄理の名が見られる。袋屋は茶入の袋を作成、販売する商いで、外国の布が必要だった。薬師も薬の原料として外国の植物が不可欠で、輸入品の売買を通じて姻戚関係を結んでいたとみられる。八代の町人の間に、輸入品売買のネットワークが形成されていたことを示すものだ。
領主が替わっても続いた貿易
八代は八代海に臨む、中世から続く港町で、相良氏支配下の戦国時代(16世紀中頃)、家臣が記した年代記「八代日記」によって、当時の港「徳渕津」から八代商人の「森」が、中国に貿易船を派遣していたことは分かっていた。その後の貿易活動は確認されていなかったが、今回の史料から、相良氏の後、島津、小西、加藤、細川の各大名が相次いで八代を治めた中で、森家の貿易活動が続いていたことが明らかになった。
稲葉継陽・熊本大永青文庫研究センター長は「領主の命で貿易を行っていた側面はあっただろう。だが、むしろ町人が主体性を持ってネットワークを築きながら、領主が替わっても、したたかに貿易を続けていたことが分かる」と話す。
貿易都市としての繁栄
企画展では、貿易都市としての八代の繁栄ぶりが、様々な資料で紹介されている。拠点となったのが、「徳渕津」だ。江戸時代につくられた八代の地図「天保肥後国絵図控」(パネル展示)では、「徳渕船着」(徳渕港)の表記が確認できるほか、天草への航路が赤い線で示されている。



