右手まひの86歳女性の戦争体験を記者が代筆 米軍攻撃で奪われた「おじさま」への思い
昨年11月、中日新聞の本社に一本の電話がかかってきた。高齢の女性からの切実な訴えだった。「わたしね、戦争の思い出があるけど、右手がまひして、うまく書けない。残したいことがいっぱいあるのに」。大好きだったおじさまを米軍の攻撃で奪われた話を後世に伝えたいというその声に、読者の戦争体験をウェブに保存する担当記者は即座に応じた。「僕が代わりに書きます」。
脳出血で右手まひも左手で書き続ける日々
電話から5日後、記者は名古屋市南区にある中村久美子さん(86)の一軒家を訪れた。60代後半で脳出血を患い、右半身にまひが残っているという。一人暮らしの部屋は生活の痕跡が色濃く、手元には常に紙束が置かれ、利き手ではない左手で何かを書き付けているようだった。
中村さんは記者に温かいココアを勧めると、堰を切ったように語り始めた。その言葉には、80年もの歳月を経ても癒えることのない戦争の傷痕が刻まれていた。
結核を抱えながら出征した「おじさま」安立緑さん
中村さんが「おじさま」と呼ぶのは、母の弟である安立緑さん。戦時疎開先の母の実家、岐阜県海津市で、幼かった中村さんをことのほか可愛がってくれた人物だ。安立さんは幼少期から結核を患い療養生活を送っていたが、祖母の強い意向で兵役検査を受け、合格してしまったという。
「軍隊の訓練が休みのときは、馬で地元に帰ってきて一緒に乗ってくれたんです」と中村さんは懐かしそうに振り返る。手綱を握る中村さんに「競馬の騎手になれ」と声をかけてくれた優しいおじさまの姿が、今も鮮明に記憶に残っている。
フィリピン沖で米軍の爆撃機に撃沈される
安立さんは中国に出征した後、どの戦地を転戦したか詳細はわからない。ある日、戦友が祖母の家を訪れ、安立さんの死を伝えた。結核が悪化し、赤十字マークの船で日本に送られる途中、フィリピン沖で米軍の爆撃機に撃沈されたのだ。
大好きな人を突然失った中村さんは、祖母を強く責めた。「どうして病気のおじさまを兵隊に行かせたの」。そして、船を撃沈した米国に対しては「死ぬまで恨む」と心に誓った。
アメリカだけは行けなかった戦後人生
戦後、中村さんは40年以上にわたり金融機関で働き、独身を貫いた。海外旅行を好み、多くの国を訪れたが、アメリカだけはどうしても行く気になれなかった。あの日の恨みは、80年経った今も心の奥底に燻り続けている。
今も左手でさまざまな思い出を書き留めようとしているが、うまく書けず、内容もまとまらない。それでも書き続けるのは、おじさまの記憶を消したくないからだ。
記者の代筆に「これでいい。ありがとう」
記者が取材内容を元に代筆した戦争体験の文章を見せると、中村さんは深くうなずいた。「これでいい。ありがとう」。その一言に、記者は肩の荷が下りる思いがした。代筆を請け負うからには、中村さんの言葉を一つも漏らさず拾いきらなければならない。その覚悟を持って臨んだ取材だった。
「こういう残し方もあるんだ」。記者として、新たな使命を見つけたような気持ちになった。戦争体験者の胸の内を、丁寧に書き留めていくことの重要性を痛感した瞬間だった。
80年経っても答えの出ない問い
代筆された手記を読みながら、中村さんはつぶやいた。「どうしておじさまは戦争に行かなければいけなかったのだろう」。この問いは、80年もの間、彼女の中で答えの出ないまま続いている。
戦争によって奪われた命、残された者の癒えない傷。中村久美子さんは、そうした体験者の一人として、今も救われない思いを抱え続けている。記者は、そんな人々の声を一つ一つ丁寧に記録し、後世に伝えていくことが自分の役割だと改めて感じた。
戦争の記憶が風化しようとする今、個人の体験を丹念に拾い集める作業は、歴史を紡ぐ重要な営みである。右手がまひしていても、左手で書き続ける中村さんの姿は、記憶を残すことの尊さを静かに物語っている。



