第五福竜丸展示館が開館50年、核廃絶の象徴として約614万人が来館
第五福竜丸展示館50年、核廃絶の象徴として約614万人来館

1954年に米国の水爆実験により太平洋で被ばくした遠洋マグロ船「第五福竜丸」の船体を保存する東京都立第五福竜丸展示館(江東区)が、10日で開館50年を迎えた。23人の元乗組員はほとんど亡くなったが、「第五福竜丸は核のない世界へと航海中」というメッセージを掲げ、半世紀を経た今も多くの修学旅行の子どもたちや海外旅行客らが訪れている。3人の学芸員たちはその思いを伝え続けている。

展示館の歴史と役割

第五福竜丸は、静岡県焼津市を出港し太平洋で遠洋マグロ漁をしていた1954年3月1日、米国がビキニ環礁で行った水爆実験に遭遇し被ばく。久保山愛吉無線長が半年後に亡くなった。国が引き取った船体は東京水産大(現東京海洋大)の練習船に改造され「はやぶさ丸」に改名。1967年に廃船し解体業者に払い下げられたが、保存運動により都が計画する夢の島公園内に展示館建設が決まり、船名も戻された。船体は第五福竜丸平和協会が都に寄贈した。

展示館は1976年の開館以来、昨年度までの来館者数は約614万人。年間400校以上の小中高校などが見学に訪れる。事務局長の市田真理さん(59)は「ベビーカーを押した親子連れも、高齢者も来る。公園内の無料施設だからこそ。何も知らないで入ってきた人たちが、真剣に見て『へえ』となる。そんな光景を見てきた。それが大事」と語る。

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学芸員の取り組み

管理運営のために設立した公益財団法人第五福竜丸平和協会が、都からの委託で展示館を守る。2001年、現在は協会の専務理事も務める学芸員の安田和也さん(73)が加わり、案内や解説を担う有志を集め「ボランティアの会」を発足した。「3人だけじゃできない。プラス応援団でやっている」と安田さん。近年は学生のインターンらも発信に協力する。

学生時代から関わり、卒業後の15年に学芸員になった蓮沼佑助さん(36)は「展示館を、世界の核被害を扱う拠点にしていきたい」と語る。最近は、海外からの来館者も増えている。「広島、長崎、そして展示館にも来てくれる」。市民の運動でできた展示館は、来館者がそれぞれの思いを自由に語れる「オープンな場」だとも感じている。

船体の保存と課題

第五福竜丸は2020年に、日本船舶海洋工学会の「ふね遺産」にも認定された。船は来年で建造80年。3次元測量などで状態を確認しているが、木の腐食とみられる部分もあり、「歴史の証言者」をどう守っていくかは課題だ。

都の今後の取り組みについて、小池百合子都知事は5日の定例会見で「記憶を次の世代に語り継ぐということは重要。実物の第五福竜丸、さまざまな資料、写真の展示を通じて皆さんに対して被ばくの状況を伝えていきたい」と述べた。

元乗組員の家族の思い

第五福竜丸の元乗組員は既にほとんどが亡くなった。1人が存命とみられるが、公の場には出ていない。5年前に87歳で亡くなるまで語り続けた大石又七さんの長女、田中佳子さん(65)は「船が朽ちて無くなってしまう時に、保存運動に立ち上がってくれた人には感謝しかない」と話す。

大石さんは被ばく後に地元の静岡を離れ、東京でクリーニング業に就いた。保存運動の当時は、差別を恐れてまだ元乗組員と知られぬように生きており、中学生たちに請われて経験を語り始めたのは展示館ができて7年後。田中さんら家族の前でも直接語ることはなかった。

大石さんは2012年に脳出血で倒れた。体にまひが残った大石さんの各地の講演に田中さんも付き添った。「被ばくは誰の責任なのか。父は悔しさや怒りを整理できないままでいたと思う。納得できないまま叫び続けていた」。展示館では生前の大石さんの証言映像も視聴できる。

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「まずは知ってもらい、足を運んでもらえる場に。残り続けてほしい」と田中さん。「なくなっちゃったら後世に伝わらず、無かったことになってしまう。船自体が残り、展示館があそこにあるべき意味はとても大きい」