戦時中の村長日記が寄贈、戦死の報を伝える苦悩と空襲の記憶
戦時中の村長日記寄贈、戦死の報と空襲の記憶

戦時中の村長日記が大野城市に寄贈、戦死の報を伝える苦悩と空襲の記憶

戦前から戦後にかけて、福岡県大野城市の前身である大野村で村長を務めた山上高太郎さんの日記が、同市へ寄贈されました。この日記には、村出身者の戦死を自ら家族に告げた際の悲嘆や、進駐軍から次々と押し付けられる無理難題など、戦中や戦後の混乱期にまつわる記録や心情が克明に刻まれています。寄贈は、孫の高昭さんが戦後80年の昨秋に行ったもので、貴重な歴史資料として注目を集めています。

山上高太郎の経歴と日記の概要

山上高太郎さんは、漢文の教師としてキャリアをスタートさせ、村議を経て1930年に村長に就任しました。終戦翌年の1946年10月には公職追放令により辞職しましたが、1950年に町制施行した大野町で1955年から1963年まで町長を務め、1979年に89歳で亡くなりました。日記は1933年から1974年にかけて書かれた34冊で、「碧山荘」の雅号を用いて、日々の出来事や心情が詳細につづられています。

戦死の報を遺族に伝える苦悩

1944年10月、海軍の特攻隊を援護する直掩機に搭乗していた村出身者が戦死した際、山上さんは役場に届く戦死の報を一人一人の名を日記に書き写し、自ら遺族の元を訪ねてその死を伝えました。日記には、「傳達書を出して旨を告ぐる。先の間では母の嘆啼の声が微かに流れて来た。長子はガダルカナルに、次子は南冥の地に於て戦死。親として母として泣がざるは嘘である」と記されており、遺族の悲しみと自身の苦悩が生々しく伝わってきます。このような記述は、戦時下の村長としての重責と人間的な葛藤を浮き彫りにしています。

福岡大空襲の恐怖と混乱

1945年6月19日、福岡大空襲が発生した際、山上さんは高射砲のとどろきと叫び声で「床を蹴って」飛び出したと日記に記しています。「来るものが遂に来た。福岡市上空は炎の紅蓮に染められて居る。限りなく打下される焼夷弾の火。火の雨は限りなく降る」という描写は、空襲の恐怖と混乱を鮮明に伝えており、戦争の惨禍を現代に伝える貴重な証言となっています。この出来事は、戦時中の一般市民の生活が如何に脅かされていたかを如実に示しています。

日記の歴史的価値と今後の活用

山上高太郎さんの日記は、戦中・戦後の地方行政や社会情勢を理解する上で極めて重要な資料です。孫の高昭さんが寄贈した背景には、戦後80年を機に歴史的記録を後世に残したいという思いがありました。大野城市では、この日記を教育や研究に活用し、戦争の記憶を風化させない取り組みを進めていく方針です。日記を通じて、戦争の悲劇と平和の尊さを改めて考える機会が広がることが期待されています。