長崎県の雲仙・普賢岳の噴火活動を、仮設校舎から観察し続けていた小学生がいた。43人が犠牲となった大火砕流で学校から避難を強いられた深江町立(現南島原市立)大野木場小の6年生14人は、仮設校舎で授業が再開した頃から卒業式の日まで約7か月にわたって、日々形を変える普賢岳の溶岩ドームを描き続けた。災害から目をそらさず、向き合っていた子どもたちの姿が浮かぶ。(小川紀之)
迫る大火砕流、死を覚悟した瞬間
1991年6月3日の大火砕流が発生した午後4時8分、学校に残っていた6年生たちは、迫り来る火砕流に「すごく大きいのが来よる」「学校が燃える」と騒然とした。そのうちの一人、大山貴之さん(46)は「これは死ぬと思った。家はすぐ近くだったので、『どうせやったら家で死にたい』と思ったほどだった。小学生で死を覚悟することは普通ないですよ」と、当時の恐怖を語る。
仮設校舎での観察日記
大火砕流が襲った島原市上木場地区に隣接していた大野木場地区。児童たちは一時、机の下に身を隠した後、3キロ先の近隣の小林小まで走って逃げた。地域の人々の多くは町民センターに避難。その後、大野木場地区は警戒区域の対象となり、避難場所を転々とした人も多く、11回の引っ越しを余儀なくされた児童もいた。
この年の8月、小林小の敷地内に設けられたプレハブの仮設校舎で授業が再開した。溶岩ドームが真正面に見える空き教室があり、担任だった下田恭子さん(71)の勧めで、6年生はそれぞれ「普賢岳観察日記」をつけ始めた。全国から届いた支援物資のノートに、時には色鉛筆も使って山の様子を描き、「左端のドームが変色している」「水蒸気が出ている」「舌状ドームは落ちそうになっていた」などと変化の状況も書き込んだ。
家を失っても続けた日記
児童も教師も元の校舎や家に戻る日を心待ちにしていたが、同年9月15日に発生した火砕流が大野木場を襲い、小学校と周囲の家屋を焼いた。大山さんも家を失った。翌日の日記には皆、絵はなく、「くやしい」「見たくない」といった思いがつづられている。日記をやめようとの声もあったが、大山さんは「山を見なくなるとまけそうなきがしたのでつぎの日から、また日記を書きはじめました。大野木場に帰れるまでがんばります」と日記に書き込んだ。
観察日記は卒業式の日まで続けられ、児童たちは災害と正面から向き合い続けた。その記録は、自然の猛威と人間の強さを今に伝えている。



