音楽プロデューサーで日比谷音楽祭実行委員長の亀田誠治氏が、自身の東京での青春時代を振り返る。今回は、音楽に夢中だった少年時代と、架空のラジオ局「FM亀田」の誕生秘話を語る。
江古田の街と音楽との出合い
亀田氏は東京・江古田の街をこよなく愛するようになった。駅の南北に広がる商店街は昭和の面影を色濃く残しており、小学校の窓からはサンシャイン60の建設工事が見えたという。練馬区立開進第三中学校から私立武蔵高校に進学し、音楽に没頭する日々を送った。
ベースとの運命的な出会い
母親が音楽好きだった影響で、小学5年生のころ、母のギターでビートルズのベストアルバム「青盤」に収録された「ハロー・グッドバイ」を弾いてみた。それがギターではなくベースのラインだったことが、ベースとの出合いとなった。ピアノやギターも習ったが、初めて自分で楽器を購入したのは中学2年生のときで、それがベースだった。御茶ノ水の楽器店に行く際、エレキ楽器は不良になると心配した両親が付き添ったが、反対はされなかった。子どもの選択を尊重する家風が家庭にはあり、その姿勢は亀田氏にも受け継がれている。
架空のラジオ局「FM亀田」
ラジオで米国発の「全米トップ40」や、その日本語版である湯川れい子先生の番組を熱心に聴くうちに、架空の放送局「FM亀田」を立ち上げた。毎週日曜日に自作の全米チャートを発表していたという。自宅で一人でしゃべり、ラジカセから音楽を流すだけのシンプルなものだったが、公正を期すために自分でFM亀田宛てにリクエストはがきを出し、自分で集計していた。
文学と音楽のルーツ
中学2年生のとき、姉から「人間失格」の本を渡されたことがきっかけで太宰治を愛読するようになった。邦楽にも興味を持ち、高校3年生のときにはオフコースの日本武道館10日間公演のチケットを必死に入手した。亀田氏は「自分は太宰治とオフコースでできている」と自らのルーツを紹介している。
音楽プロデューサーとして数多くのアーティストを手がける亀田氏だが、その原点は東京・江古田の街と、音楽への純粋な情熱にあった。



