「くそう、くそう」
岩場を抜け、ふたりで走っていたとき、喜一郎がしきりに呟いていた。
「美しい金沢八景が、あの異国船に穢されたようで悔しかったのだ」
「しかし、やり過ぎだ。黒船の砲口は皆、こちらに向けられていたんだぞ。それこそ、砲弾でめちゃくちゃにされるぞ。美しい乙艫浜や野島だって」
倫太郎が息を切らせながらいう。その後は互いに押し黙ったまま町まで走り続けた。
金沢八景とは
金沢八景──。これは、我が金沢米倉家中が誇る八つの景観をいう。そもそもは清国の宋時代に確立した山水画の画題、瀟湘八景になぞらえたもので、我が金沢の地と琵琶の湖を擁する近江の八景がよく知られる。
瀟湘は、清国において有名な景勝地であり、宋代の絵師が、この地で描いた──河上を行く帆船、夕暮れの山寺、賑わう市、夜の雨、湖上に浮かぶ月などの八つの風景が画題として継承されていくようになったのだ。
金沢の地は、港町六浦を抱えた商業や軍事の要衝であると同時に、古より風光明媚な土地としても有名だった。およそ百七十年前、徳川光圀公の招聘した明代の僧がこの地を訪れ、海、山、島の景観を瀟湘八景に見立てて漢詩を詠んだのがきっかけらしい。
それが名所図会や錦絵などにも描かれた。さらに、江戸から十一里ほどという近場でもあるため遊山客も多く訪れる。小藩とはいえ、この地に住む者にとって、自慢の国であるのだ。
衝撃と発見
だからこそ、黒い煙を上げる真っ黒な船を眼にしたときの衝撃と慄きは忘れられない。思わず足がすくみ、うっかり岩場に打ち上げられた昆布を踏んで滑ったのを喜一郎には見られずに済んだのはよかった。この間抜けと罵倒されるところだった。が、滑ったときに、倫太郎は岩場の下に思いがけない光景を見た。そのことは、喜一郎にはいわずにいた。



