「今時、番方役方など気にせずともよいのです。なにをためらうことがあるのです。ともかくお役を得て、ご奉公することが大切なのです。ありがたくお受けなさい。藤左衛門のことです。誰か適当な若者はいないかと賄頭に問われ、あなたのことを思い出したのでしょう。法事で会ったばかりでしたし」
「そんな、いい加減な」倫太郎は母に気づかれぬよう呟いた。が、母の耳にはしっかり聞こえていた。
「おや、知らなかったのですか?実姉のわたくしがいうのもなんですが、まったくもって弟はいい加減ですよ。まだ安吉と名乗っていた元服前ですから、かれこれ二十数年前になりますが──あなたのお祖父さまですから、我が父と」
安吉とで磯釣りに行った際に、餌を忘れたため、そのまま釣り糸を垂らしていたらしい。父親がそれでは釣れるはずがなかろう、とたしなめた。が、「中には間抜けな魚もおるやもしれませんよ」そういって釣りを続けたという。
いい加減というか、鷹揚なのか、いや大雑把なのかもしれない、とあれこれ考えていると、「さ、藤左衛門に返事を。弟はせっかちでもありますから、気が変わらぬうちに。早う早う」と母にせっつかれた。
それもそうだ。叔父が推挙してくれたのだ。疑う必要などないではないか、と返書をしたためた。
倫太郎が文を出すと、二日で再び藤左衛門から書状が届いた。四月十四日が大安なので、この日に来い、と記されていた。なるほど確かにせっかちだ。倫太郎の返書を待てずに、日にちを指定してきたのだ。
さて、と倫太郎は腹に力を込めた。いよいよ江戸へ出立だ。
障子に手を掛けたとき、ふと倫太郎は振り返った。山積みの書物やらなにやらの中から、一冊の綴じ帳を抜き出して、懐に納める。これで、よしっ。
倫太郎は、大きく呼吸をし、慣れ親しんだ自室から一歩踏み出した。



