能登の「珠洲焼」が全国を席巻した理由、地元研究者が「幻の古陶」に光を当てる
珠洲焼が全国席巻の理由、地元研究者が「幻の古陶」に光

能登の「珠洲焼」が全国を席巻した背景と現代の復興への道

奥能登を代表する伝統工芸品の一つである「珠洲焼」は、中世の日本において驚くべき広がりを見せ、全国の約4分の1の地域を商圏に収めていました。能登半島の先端で生産された、一見素朴な焼き物がなぜこれほどまでに全国を席巻したのか、その理由を地元の研究者たちが明らかにし、「幻の古陶」に新たな光を当てています。

京都の貴族と宗教ネットワークが支えた広大な商圏

珠洲市は、2年前の能登半島地震で甚大な被害を受け、市内の住家の3分の2以上が「半壊以上」と認定されました。公費解体で更地化された住宅地は、1月以降の寒波の影響で一面の雪景色となっています。そんな中、山裾の集落にある珠洲焼の窯跡を訪ねると、斜面を利用したトンネル状の窯があった場所には、線刻が規則正しく施された破片が無数に散らばっていました。

珠洲郷土史研究会幹事の大安尚寿さん(64)は、「珠洲焼の窯は絵図などの記録がなく、焼成に失敗した不良品も製造工程を知る貴重な資料です」と説明します。大安さんは市立珠洲焼資料館で学芸員として30年以上勤め、珠洲焼の研究に携わってきました。

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能登半島は古墳時代から日本海側の水運の中継地として栄えていましたが、珠洲焼が全国的に流通した背景には、京都との深い関係があります。12世紀、珠洲には京都の貴族が支配した荘園「若山荘」があり、実質的な領主である日野家は室町幕府将軍の正室・富子を出した名家でした。広大な農地が確保できない奥能登の産業振興策として、東播磨(兵庫県)の陶工の技術が導入され、珠洲焼の生産が始まったのです。

窯は真言宗の古刹・法住寺の支配地域に多く築かれ、同寺は日野家の祈祷所でもあり、北陸で信仰が厚かった白山神社とも関わりが深かったことから、「宗教ネットワーク」が珠洲焼の広範囲な流通に大きな影響を与えました。主力製品の壺、甕、すり鉢などを生産した窯は約40基発見され、国史跡に指定されています。窯は川の流域に多く分布し、その先につながる日本海での交易を計算した一大産業となりました。

技術革新の波に乗れず衰退、しかし地元研究者が再評価

しかし、15世紀以降は、大量生産に成功した越前焼(福井県)などが競合し、珠洲焼は衰退の道をたどります。生産末期には岩盤をくりぬいた地下式の窯が築かれ、大量生産を目指したものの、湧き水が多い場所で不調に終わりました。大安さんは「技術革新の波に乗れなかったのが衰退の理由です」と指摘します。

珠洲焼は高温で焼き上げ、粘土の鉄分を黒く発色させた製品が多いですが、この窯の周囲で見つかる破片には焼成が不十分な赤いものが多く、当時の工人たちの苦闘が窺えます。近世以降は九州の唐津(佐賀県)などの新興産地が台頭し、江戸時代に能登を領有した加賀藩も九谷焼などの高級品生産に軸足を置いたため、需要がなくなった珠洲焼は16世紀以降に廃絶し、長く忘れ去られてきました。

「幻の古陶」に光が当たったきっかけは、珠洲郷土史研究会のメンバーが1949年に窯跡を発見したことでした。著名な学者らによる「九学会連合」も1952年に調査に乗り出しましたが、当初は「古代須恵器の退化した壺甕が室町前期まで生産された」と評価され、能登の「文化的後進性」の象徴のように扱われました。

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こうした一方的な見方を覆したのは、地元研究者の地道な調査でした。金沢市在住で国立歴史民俗博物館名誉教授の吉岡康暢さん(91)は、1970年代に始まった「珠洲市史」の編さんに関わり、1990年代から珠洲焼を本格的に研究。発掘調査で珠洲焼の破片が見つかれば遠方にも駆けつけ、現在の北海道から福井県にまで及ぶ広大な商圏を解明しました。

美術的価値と現代の担い手たちによる復興への奮闘

吉岡さんは珠洲焼の美術的側面にも注目し、珠洲の窯では有力者や寺社の需要に応じて仏像や経筒なども制作されたことを明らかにしました。名品として名高い鎌倉時代(13世紀後半頃)の「秋草文壺」は、高級志向の宗教用具を生産した愛知・渥美の影響を受けた蔵骨器で、風になびくススキ状の草が描かれ、西方浄土を求める貴族らの「もののあわれ」の精神が見て取れます。

最近、名古屋市の古美術商から鑑定を依頼された珠洲焼の壺(高さ26.5センチ)には、櫛描きによる直線と曲線が軽やかに施されており、秋草文壺の流れをくむ美意識が感じられます。吉岡さんは「珠洲焼の陶工は渥美の技術の影響を受けつつも優れた創造性を発揮し、宗教用具のブランド窯として全国的に認知されていた」と評価します。

珠洲焼資料館は地震後、一時自衛隊の活動拠点として使われ、建物破損などの影響で今も休館中です。吉岡さんは「再開時には『珠洲焼美術館』として、珠洲焼の独創性を能登復興のシンボルにしてほしい」と願っています。

歴史の再評価に合わせ、1970年代から現代に珠洲焼を復活させる動きも生まれました。市の後継者育成事業なども功を奏し、約50人の作家が活動するまでになりましたが、地震の影響は大きく、今なお制作に深刻な支障が生じています。

珠洲市陶芸センターでは、焼成した珠洲焼の「窯出し」が行われ、黒灰色に焼き上がったとっくりやぐい呑みなどが取り出されています。センターの一部は、工房が被災して制作活動が困難となった作家の創作の場にもなっています。

折坂理恵さん(46)は北海道から2021年に珠洲市に移住し、「温かみのある黒が特徴の珠洲焼にひかれた」と話します。歴史的に壺など大型作品の印象が強い珠洲焼にあって、「日々、その時々に寄り添う」小型の花器や茶道具、置物などの制作に力を注ぎ、自宅兼工房が全壊したため、現在はセンターを拠点に復興支援のための箸置き制作に取り組んでいます。「応援を力に、石川県の伝統的工芸品として珠洲焼の表現の可能性を模索したい」と語る折坂さんのように、能登の土が生み出した珠洲焼は、再興へと奮闘する現代の担い手たちが新たな時代を築いています。