スモーキングルーム第201回:令嬢と煙の静かな対話
千早茜による連載小説「スモーキングルーム」の第201回が公開された。物語は、宮殿のようなホテルを舞台に、令嬢と名付けられた女性と、煙と呼ばれる人物との再会から始まる。
再会と失踪した総支配人
「でも、どうしても、もう一度ここに来たかったから、父にお願いしたの。また、あなたに会えるなんて」と令嬢が語りかける。煙はローテーブルにクリームや薔薇のジャムを入れた銀器を並べながら、静かにその言葉に耳を傾けている。その無駄のない手際を見て、令嬢はかすかに首を傾げた。
「あの背の高い総支配人は? あの人、あなたの父親みたいだった」と令嬢が尋ねると、煙は「違いますよ」と否定する。そして、寝台の上の人形に目をやりながら、「あの人形と同じです。彼は遺失物であるわたくしを適切に保管してくれていました」と説明した。
「遺失物」と戦時下の労働問題
「遺失物」という言葉に令嬢が怪訝な顔をすると、煙は「しかし、彼はもうここにはおりません」と続ける。令嬢が「どうして? 体でも悪くしたの?」と心配そうに尋ねると、煙は「彼はJだったので、ホテルの迷惑になると思ったのでしょう。自ら、去りました」と淡々と答える。
令嬢の表情が曇り、「父の工場にもたくさんのJがいるわ……収容所から連れてこられた。でも、彼らは……」と言葉を詰まらせる。煙は静かな微笑みを浮かべたまま、何も答えない。令嬢は思う。彼女の父親はJたちを使い捨ての労働力としてしか見ておらず、満足な食事も睡眠も与えず、兵器工場で長時間働かせ、力尽きれば新しい労働力を収容所から連れてくるのだと。
Jの行方と令嬢の決意
「彼はいまどこに?」と、なんとか息を整えて令嬢が尋ねる。煙は「わかりません」と微笑みを崩さずに答える。その優美で儚い微笑は幼い頃と変わらず、令嬢は眺めていると体のどこかに穴が空いたように淋しくなるのを感じる。彼はまだ無垢なままなのだわ、と令嬢は思った。こんな宮殿のようなホテルでずっと育ってきたのだもの。外の世界を知らずに。
「ねえ、彼の名前を教えて。父は総統と仲が良いの。我が家へ招いたこともあるわ。もし収容所にいるとしたら、救いだせるかもしれない」と令嬢が提案する。しかし、煙は目を動かさず黙ったままだった。この静かな対話は、戦時下の社会問題と個人の葛藤を浮き彫りにしている。



