海外で使える薬が日本では使えない「ドラッグロス」が拡大する懸念が広がっている。製薬企業が日本での販売を控える理由は、米トランプ政権が打ち出した薬価政策にある。遠く離れた米国の政策が日本の医療現場にどのような影響を及ぼすのか、臨床現場からは不安の声が上がっている。
乳がん新薬「イムルリオ」の販売遅れ
乳がん治療に用いる新薬「イムルリオ」は、2025年12月に経口型の次世代ホルモン治療薬として国内で初めて承認された。しかし、2026年5月になっても薬価が決まらず、販売が開始されていない。同時期に承認された他の薬剤の多くは、3月から遅くとも4月には薬価が決定し、販売が始まっている。
国内で乳がんと診断される人は年間約10万人に上る。イムルリオは「ホルモン受容体陽性HER2陰性」という乳がん患者の中で最も多いタイプを対象とし、がんが進行または再発した患者に用いられる。1日1回の経口薬で病気の進行を遅らせる効果が期待されている。
ホルモン治療薬の課題と期待
乳がんのホルモン治療薬は、使用を続けるうちに徐々に効果が薄れる。近年は効果が長く持続する薬剤も開発されているが、それでもがんに遺伝子変異が生じると効果が失われる。そのため、複数の製薬企業が変異があっても有効な次世代薬の開発に取り組んできた。
国立がん研究センター中央病院腫瘍内科の下井辰徳医長は、イムルリオについて「患者数が多く、期待が高い薬だ」と評価する。薬を使用するための検査が限られているという課題はあるものの、年間で最大数万人が対象となる可能性がある。
異例の薬価収載遅れ
一般的に、薬事承認から90日以内に薬価収載されないのは異例だ。下井医長は「発売が遅れている原因が米国の制度なのか知りたい。米国の制度が原因であれば、今後も患者に薬が届くまでの期間が長くなってしまう可能性がある」と不安を訴える。
「ドラッグロス」の仕組み
問題の背景にあるのは、トランプ米大統領が2025年5月に大統領令に署名した「最恵国待遇(MFN)」価格政策だ。この政策により、米国の低所得世帯向け医療保険「メディケイド」と高齢者向け「メディケア」で利用される薬の価格が、日本を含む他国の価格と連動して引き下げられる。
大統領令には「米国民は同じ工場で製造されたまったく同じ薬に、ほぼ3倍の価格を払うことを強いられるべきではない」と明記されている。米国では薬価が他の国に比べて高く設定される傾向があり、この是正が狙いだ。
製薬企業の利益と日本市場
製薬企業は、日本で新薬を販売すると米国での価格が連動して下がり、利益が減少するリスクを懸念する。そのため、日本での販売を控える、あるいは遅らせる判断をする企業が出てきている。この結果、海外で使用可能な画期的な薬が日本で入手できない「ドラッグロス」が拡大する恐れがある。
日本の薬価制度は、新薬の価格を公定価格として設定し、定期的に改定する仕組みだ。米国の政策変更が日本の薬価に直接影響を及ぼすことはないが、製薬企業のグローバルな価格戦略に影響を与え、結果的に日本市場への供給が滞る可能性がある。
臨床現場への影響
乳がん患者にとって、イムルリオのような新薬の入手が遅れることは治療選択肢の減少を意味する。特に、既存治療で効果が得られなくなった患者にとっては、新薬の登場が命綱となるケースもある。
下井医長は「患者の治療機会を損なわないためにも、迅速な薬価収載と販売開始が望まれる」と強調する。また、他の新薬にも同様の遅れが生じる可能性があり、日本の医療全体への影響が懸念される。
今後の展望
トランプ政権の薬価政策は、米国内での医療費削減を目的としているが、その影響は日本を含む世界各国に波及する。日本の厚生労働省は、製薬企業との協議を進めているが、根本的な解決には国際的な協調が必要との指摘もある。
専門家は、日本の薬価制度の見直しや、日米間での情報共有の強化が求められるとしている。患者団体からは、新薬へのアクセスを確保するための対策を急ぐよう求める声が上がっている。



