もう「殺人的」じゃないけど、やはり通勤は大変――。2026年5月29日、片山一弘編集委員が執筆した本連載は、2020年4月17日に「テレビ電話」をテーマに始まった。新型コロナウイルス感染症の拡大と緊急事態宣言下で、在宅勤務やリモートワークにも触れていた。あれから6年、在宅勤務の現状はどう変わったのか。
テレワークの減少と通勤ラッシュの復活
総務省の「情報通信白書」令和7年版によると、民間企業のテレワークは2020年のコロナ禍後に急速に導入が進んだが、2022年以降は減少傾向が続いている。2020年にはがらがらだった通勤電車も、今では再び混雑するようになった。働き方は変わっても、勤め人は通勤から逃れられないのが現実だ。
首都圏通勤ラッシュの起源
首都圏の通勤ラッシュはいつから始まったのか。日本初の鉄道が新橋―横浜間に開通したのは1872年10月14日。都市部では路面電車を中心に鉄道網が発達した。1903年12月5日の読売新聞朝刊3面には「電車の無情」と題したイラストエッセーが掲載され、路面電車を指さす子供と母の会話が描かれている。子供が「坊はお馬の無い馬車に乗るョー」と言い、母が「だって悉皆満員で乗れませんからおんぶして往きませう」と答える内容だ。見出しの脇に「一昨日実見」とあり、作者が実際に街で聞いた会話とみられる。
コロナ禍中の2020年6月11日朝刊くらし家庭面の「その生活様式 いつから?」という記事では、首都圏の通勤事情の歴史が詳しく紹介されている。電車による通勤は、東京で路面電車(東京市電)が走り出した明治期後半に始まり、交通評論家の佐藤信之さんは「大正には満員電車が生まれた」と語る。明治末から大正にかけ、官公庁や企業の規模が拡大し、工業が発達して工員が増えたことが背景にある。1923年の関東大震災で都心部の住民が近郊に移り住み、通勤のため現在のJR首都圏路線でも混雑が始まった。その後、私鉄による郊外開発と鉄道整備が進み、戦後昭和30年代には日本住宅公団が郊外に団地を造成し、私鉄も混雑するようになり、社会問題化した。
私鉄沿線の開発と住宅ブーム
私鉄による郊外開発は1930年代には広告として紙面に登場する。1932年10月11日朝刊8面には「小田急 林間都市 分譲地」と題した小田急の広告が見られ、以後たびたび掲載された。戦後1950年代には、首都圏の地方版で私鉄沿線の住宅開発記事がにぎわう。例えば1955年10月16日朝刊神奈川版では「私鉄沿線開発に“建売住宅ブーム” 二ヵ月間で四百戸」と相模鉄道、小田急、京浜急行、東急などの情報を伝え、1956年1月13日朝刊千葉版の連載「ふさ新地図」第8回では「山林切開かれ住宅地 “建売”二、三百戸は建ちそう」と新京成電鉄沿線のルポを掲載。1957年3月14日朝刊社会面では「首都圏の宅地と交通 整備計画決まる 5年内に6地下鉄完成 都内152万坪を区画整理」と首都圏整備審議会による住宅と鉄道の計画を紹介している。現在の都心部の形が形成された時期だ。
「押し屋」の登場とラッシュの過酷さ
急激な開発と人口増加はひずみを生んだ。1959年11月3日朝刊社会面の「もうこれ以上はいけません」という見出しは強烈だ。続きは「国電の通勤ラッシュ 定員の二・八倍も 時差通学を強く求める」。当時の東京鉄道管理局が発表した「国電通勤白書」によると、東京都と隣接県の通勤客は一日543万人、年間19億8千万人で、国鉄総輸送人員の44%に達し、午前7時から10時に都心に集中、定員一人のスペースに平均2.8人という混雑ぶりだった。
この乗客を列車に詰め込むため、国鉄は学生アルバイトを「押し屋」として起用した。1961年1月31日夕刊社会面の連載「赤信号」第23回では、「学生押し屋」の業務内容が「右にとび左に走り、しまりかけたドアを手でおさえ乗客を押し込む」と記述され、見出しは「一三〇円の重労働 けとばすお客は困りもの」。最も乗降客の多い新宿駅には30人前後、他主要駅にも10~30人程度が配備された。この「学生班」に関する記事は1955年から見られ、後には「はぎ屋」と呼ばれる、これ以上は無理な乗り込みをあきらめさせる係も登場した。
ラッシュ緩和策の変遷
国鉄や私鉄各社は線路の複線化や便の増発など様々な対策を講じたが、状況は基本的に変わらなかった。1992年4月1日の夕刊「JR7社発足5周年」の特集「ラッシュ緩和の限界に挑む」では、東京近郊の地価高騰でマイホームと職場の距離が遠のき、山手線の上野―御徒町の外回り線などは最高時で定員の2.77倍のすし詰め状態と報じられ、1959年とあまり変わらない状況が続いていた。
この頃の対策として登場したのが「6扉車」だ。1990年6月12日朝刊社会面の記事「山手線11両化 増結車両は“イスなし”」では、午前10時までの朝ラッシュ時に座席をはね上げ、全乗客が立ったまま乗ると説明。扉も通常より多い6か所だった。しかし、この車両は2017年2月3日夕刊一面「通勤“イスなし車両”廃止へ 混雑率改善 ホームドアに合わず」で廃止が報じられた。理由はラッシュ緩和により不要になったことと、1車両あたり4ドアが一般的なホームドアの規格に合わないこと。首都圏でホームドアの設置が急速に進み、ホーム側とドアの位置が異なる列車は使えなくなった。
行商のおばちゃんの記憶
筆者は1970年代後半から80年代半ばにかけ、京成電鉄や国鉄で千葉県船橋市から都内の学校に通学していた。「殺人的」と言われた混雑を体験したが、当時の京成の通勤列車には行商のおばちゃんも乗っていた。朝の列車の最後尾に行商専用車両が連結され、野菜を詰めた行李を背負ったモンペ姿の中高年女性たちが乗車。筆者が中学生の頃、席を譲ると喜んで「みそ飴、食べる?」と手作りのアメをくれた。包装されていなかったが、おいしくてそのまま食べ続けた記憶がある。
1988年12月25日朝刊千葉版「ズームアイ」の「京成名物・行商のおばちゃん 商売だけでないぬくもり」は、彼女たちの仕事ぶりを伝える。大半が60歳を超え、連日80キロ近い荷物を運び、戦後まもなくの食糧難時代から、持参した野菜が飛ぶように売れ、成田・佐倉方面の農家の家計を支えていた。専用列車から専用車両となり、2013年には廃止。数年前にテレビ番組で残り少ないおばちゃんに同行したが、今も現役の人はいるのだろうか。



