東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県山元町の花釜地区に、被災した自宅脇の建物を改修した小さなパン店が、2026年5月29日にオープンした。店主の渡辺愛希さん(42)は、津波のショックから長期間引きこもりがちだったが、震災ボランティアとの交流を通じて目標を見つけ、開店にこぎつけた。
開店初日から大盛況
正午、渡辺さんは「パン処 ひととせ」の店前で、開店を心待ちにしていた約25人の町民らに頭を下げた。「今からオープンします。お待たせしました」。朝から手作りしたメロンパンやクリームパンなど11種類、約80個のパンは、わずか約50分で完売。その後もパンが焼き上がるたびに列ができ、楽しそうにパンを選ぶ客の姿に「頑張ってきてよかった」と目を潤ませた。
津波の記憶と立ち直り
15年前のあの日、海から約800メートルの自宅で昼寝をしていた渡辺さんは、地震の揺れで飛び起きた。弟の「津波が来る。早く上がって!」という叫び声で階段を駆け上がった直後、真っ黒な濁流とがれきが1階部分を襲った。家の修理が一段落した翌年、町外から戻ったが、あの光景が頭をよぎり、自宅を出ることが怖くなった。専門学校卒業後は漫画家を目指していたが、ペンを持つこともなくなった。
ボランティアとの交流が転機に
震災から4年後、家族に誘われて近くの寺を訪れた。そこは全国から集まる学生ボランティアの拠点だった。故郷でもないのに防災林の植樹などに取り組む姿を見るうちに、「私が何もしなくていいのか」と思うようになった。自分にできることからと、小学生の頃から作ることが趣味だったパンや菓子を彼らに振る舞った。「おいしい」と笑顔で食べてもらえることがうれしくて、店を開くことが夢になった。
地域の応援と今後の展望
両親が後押しし、学生たちも木材の加工や塗装を手伝ってくれた。基礎工事などで協力した兵庫県尼崎市の細田侑聖さん(25)は「みんなで作った自慢の店。地域の憩いの場になってほしい」と願う。さっそくパンを購入し、友人と集会所に集まった同地区に住む主婦菊地次子さん(77)はブルーベリーチーズタルトを味わい、「もちもちで絶品。次は全種類購入したい」と笑顔。「少しでもにぎわいが戻るきっかけになれば」と、店に期待する。
山元町は震災で600人を超える人が犠牲になった。沿岸の花釜地区は人口が約1100人と、震災前の3分の1に激減。ほぼ全域が災害危険区域に指定され、住宅の新増改築が制限されたため、民家はまばらだ。「悲しい出来事があったけれど、ここは故郷。店が地区に足を運ぶきっかけになればうれしい」と渡辺さん。今後はイチゴやリンゴなど町の特産品を使ったパンを並べる予定だ。「四季を通じておいしいパンを届けたい」。「一年」を示す店名「ひととせ」には、そんな思いを込めたという。
店舗情報
店舗は山元町浅生原砂押105。営業は原則土日の正午~午後7時を予定。6席のイートインスペースもあり、その場でパンを楽しむこともできる。



