チョルノービリ原発事故から40年、名古屋のNPOが指摘する二重の被害と支援の困難
チョルノービリ事故40年、名古屋NPOが指摘する二重の被害

1986年に旧ソ連ウクライナで発生したチョルノービリ(チェルノブイリ)原発事故から、2026年4月26日で40年を迎える。史上最悪とされる原子力災害の避難者たちは今、侵攻を続けるロシア軍の攻撃にさらされている。現地支援を続ける名古屋市のNPO法人「チェルノブイリ救援・中部」(チェル救)の河田昌東理事(86)は、「事故の避難者は戦争によって二重の被害に苦しんでいる」と指摘する。

戦時下で深刻化する支援の難しさ

昨年11月中旬、河田さんは届いたメールに衝撃を受けた。首都キーウ近郊に住むナターリャ・ホデムチュクさん(73)が、ロシアの無人機によるアパート爆撃で死亡したという知らせだった。ナターリャさんの夫は40年前、チョルノービリ4号機の爆発に巻き込まれ、救出されずに埋められた「最初の犠牲者」として知られていた。河田さんは何度も顔を合わせた彼女の死を「二度目の不幸」と表現し、胸を痛めた。

チェル救は、被災地からの支援要請を受けた名古屋工業大学の研究者が中心となり、事故から4年後の1990年に発足した。初期から活動に参加する河田さんは30回以上現地を訪問。事故処理作業者や原発周辺住民に物資を届け、畑に菜の花を植えて放射性物質を吸収させる「菜の花プロジェクト」などに取り組んできた。しかし、2014年のロシアによるクリミア半島侵攻で州政府の予算が凍結され、プロジェクトは頓挫。「住民は汚染された食材を食べ続けるのか」と無力感に苛まれた。

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侵攻後、支援の把握が困難に

2022年にウクライナ侵攻が始まると、原発は攻撃対象となり、避難者が移り住んだキーウも繰り返し爆撃された。医療費支援が不足する人や、被ばくの影響とみられる症状に苦しむ人など、継続的な支援を必要とする人々は散り散りになり、連絡が取れなくなったケースも多い。侵攻後は何が必要で、どう支援すれば良いか把握しにくい状況が続いている。

支援先の一つ「ゼムリャキ」は、物資配送用の車両を攻撃で破壊された。今年2月、チェル救は修理費を送金したが、被ばくによる健康被害や粉ミルク支援など従来の支援に手が回らない。同団体が現地に届けた物資や医薬品、寄付は総額4億9000万円以上に上る。河田さんは「事故は40年たっても終わっていないのに、日本では現状を知ることすら難しくなっている。戦争が終わらなければ復興は進まない」と述べ、早期の終戦を強く願っている。

チョルノービリ原発事故の概要

1986年4月26日、4号機の原子炉が試験運転中に爆発。ウクライナ、ベラルーシ、ロシアなどに大量の放射性物質が拡散した。救急隊員ら数十人が急性放射線障害で死亡し、周辺で甲状腺がん患者が増加。国際評価尺度は最悪のレベル7とされ、国際原子力機関の調査では被ばくによる死者は最大4000人と推定される。一部の国際機関は将来1万人を超えると試算している。

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