京都東山大仏は豊臣兄弟のモニュメント
NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、戦国時代を駆け抜けた豊臣秀吉とその弟・秀長の活躍が描かれている。しかし、秀吉が京都・東山に建立した初代大仏に、秀長が深く関与していたことはあまり知られていない。この大仏は、日本最大の仏像でありながら、わずか10か月で完成したという驚くべき歴史を持つ。
秀長が現場を指揮、わずか10か月で完成
天正16年(1588年)5月、秀吉は三十三間堂北側で大仏造営の基礎工事を開始。指揮を執ったのは、大和国を領有する豊臣秀長だった。秀長は奈良から仏師を招き、木造漆喰塗りの工法を採用。この工法は、鋳造に比べて工期と費用を大幅に削減できた。結果、本尊は天正17年4月にはほぼ完成し、わずか10か月という異例の速さを実現した。
完成した釈迦如来坐像は、顔だけで約6メートルにも及び、奈良の大仏を凌ぐ日本最大の仏像だった。しかし、この大仏は木造であったため、文禄5年(1596年)の大地震で損壊。秀吉は修理を断念し、新たな本尊として善光寺如来を迎えた。初代大仏は破却され、現在は「幻の大仏」として記憶されている。
刀狩令のきっかけにも
この大仏造営がきっかけで発令されたのが刀狩令である。宣教師の記録によれば、秀吉は大仏建立費用と称して武器を没収し、武装解除を進めた。しかし、大仏は木造だったため、集めた金属は大仏殿の資材に使用されたとみられる。
秀長の死と大仏殿の遅れ
本尊完成後、大仏殿の造営は遅れた。その原因の一つが、秀長の体調不良だった。秀長は天正16年冬から病気に悩まされ、天正19年に死去。その後、大仏殿は高野山の僧・木食応其に任され、文禄4年(1595年)に完成した。しかし、完成直後の地震で本尊は損壊し、豊臣兄弟の壮大な計画は頓挫した。
現在、大仏殿跡は緑地公園として整備され、石垣の一部が往時を偲ばせる。方広寺の鐘銘「国家安康 君臣豊楽」は、大坂の陣のきっかけとなったことで知られる。



