「豊臣兄弟」より先に注目!愛知・丹羽兄弟の知られざる功績とその生涯
愛知・丹羽兄弟がひそかに話題、徳川の天下を導いた兄弟の生涯

NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」が大きな話題を集める中、同時期に現在の愛知県日進市周辺を治めていた戦国武将「丹羽兄弟」が、ひそかに注目を浴びている。兄の丹羽氏次と弟の丹羽氏重は、羽柴秀吉と徳川家康が直接対決した小牧・長久手の戦い(1584年)で重要な役割を果たし、「徳川の天下を導いた」と評価する専門家もいる。歴戦の武将である兄と、悲劇的な最期を遂げた弟の生涯を詳しく紹介する。

丹羽兄弟とは何者か

丹羽氏は尾張・三河国境地域における有力な武将の一族であり、岩崎城(現在の日進市)の城主を代々務めてきた。丹羽兄弟について深く知るためには、岩崎城歴史記念館の学芸員で、小牧・長久手の戦いに詳しい内貴健太さん(34)に話を聞くのが最適だ。内貴さんは「ミスターこまなが」の愛称で親しまれる好青年で、その知識と情熱は並々ならぬものがある。

「豊臣兄弟に素晴らしい魅力があるように、丹羽兄弟にも語り尽くせないほどの魅力があるんです」と内貴さんは熱く語る。その言葉には強い信念が込められており、彼が本気であることが伝わってくる。

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兄・氏次の生涯

丹羽兄弟の兄である氏次は、1550年に氏勝の長男として生まれ、織田信長に仕えた。彼は石山本願寺攻めなど数々の戦いに参加し、1575年には家康の下で長篠・設楽原の戦いに参戦した。「長篠日記」によれば、氏次は足軽大将として鉄砲隊の一部を指揮しており、同じ足軽大将の中には加賀藩の祖である前田利家の名も見られる。

その後、信長が武田家を滅ぼした1582年の「甲州征伐」にも参戦。内貴さんは「氏次は20代のころから、歴史上の重要な戦の多くに参戦している。まさに歴戦の武将だった」と解説する。

小牧・長久手の戦いでの兄弟の活躍

兄弟がともに勇名をはせたのが、小牧・長久手の戦いである。羽柴軍が犬山城を占拠し、小牧山城の家康軍と対峙した際、氏次は岩崎城の留守を16歳の弟・氏重に任せて小牧山城へ向かった。ここで羽柴軍は、家康の重要拠点であった岡崎を目指して南進する「三河中入り作戦」を立案。羽柴秀次を総大将とし、ひそかに進軍を開始した。

この作戦を防ぐために奮戦したのが、氏重である。羽柴軍の先遣隊である池田恒興の軍6千人が、岡崎への道中で岩崎城を通りかかった。氏重は天然痘を患い病身であったが、わずか300人で迎撃。攻城隊を3度も撃退したが、最後は全滅した。

戦いはわずか3時間ほどであり、一見すると無駄死ににも見える。しかし、この「足止め」が大きな意味を持った。作戦を察知した家康軍は、白山林(尾張旭市)で池田軍の進軍を待っていた秀次軍に追いつき奇襲をかけた。氏次も攻撃に加わり、秀次軍をほぼ壊滅させた。内貴さんは「岩崎城での足止めや氏次の活躍がなければ、岡崎が危険な状況となり、天下の趨勢が変わっていたかもしれない。兄弟が徳川の天下を導いた」と力を込める。

弟・氏重の最期と兄のその後

まだ16歳だった氏重は、なぜ討ち死に覚悟で戦ったのか。ある資料には「丹羽家の名を汚さないため」と記されているが、内貴さんは異なる見解も示す。氏重は傍示本城(東郷町)の城主でもあり、岩崎城を突破されると自身の城に危険が及ぶことから、「自分の家族や、領地の人々を守りたかったのでは」と推察する。

一方、氏次は秀次軍を追撃中に弟の死と落城を知った。「丹羽氏軍功録」には「大怒且嘆」と記録されている。氏次は弔い合戦とばかりに多くの敵を討ち取り、内貴さんは「兄弟の絆は深かったのだと思う」と少しうれしそうに語る。

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その後も氏次は各地を転戦し、1600年の関ケ原の戦いには家康の旗本の一人として加わり、本陣を固めた。歴戦の功績を評価され、同年に三河国伊保(豊田市)1万石の大名として出世し、翌年に没した。

丹羽兄弟の認知度向上への取り組み

兄弟についての資料は少なく、まだまだ研究途上であるという。しかし、昨年には市民有志が「岩崎城の戦い」をテーマにした「全滅クッキー」を開発。4月には小牧・長久手の戦いを紹介する長久手古戦場記念館もオープンした。内貴さんは「丹羽兄弟の認知度は徐々に高まっている。豊臣兄弟が放送中の今こそ、ぜひ興味を持ってもらいたい」と語る。もしかすると、「豊臣兄弟!」でも丹羽兄弟の活躍が見られるかもしれない。