竹中半兵衛が患った「国民病」結核の正体と36歳の生涯
竹中半兵衛が患った「国民病」結核の正体

竹中半兵衛の最期と「国民病」の正体

大河ドラマ「豊臣兄弟!」で菅田将暉が演じる軍師・竹中半兵衛は、天正7年(1579年)6月13日、播磨三木城の包囲中に病に倒れ、36歳の若さで亡くなった。日本大学総合科学研究所の早川智教授は、当時の一次資料は少ないものの、半兵衛が患ったのは後に日本の「国民病」と呼ばれる結核であった可能性が高いと指摘する。

豊臣政権を作った「影の功労者」

現代の企業経営者に「最も重要な人材」を尋ねれば、営業トップや優秀な役員を挙げるだろう。しかし創業経営者は、「危険を教えてくれる人」「人間関係を円滑にする人」「有事に冷静な判断ができる人」と答えるかもしれない。戦国時代、豊臣秀吉には実弟の秀長や蜂須賀小六、加藤清正ら多くのスタッフがいたが、その中でも後の豊臣政権成立に尽力した立役者の一人が「天才軍師」竹中半兵衛である。

複数の記録に残る「たった16人のクーデター」

竹中半兵衛(重治)は天文13年(1544年)、美濃斎藤氏の家臣・竹中重元の長男として生まれた。弘治2年(1556年)の長良川の戦いでは父に代わり城代を務め、後に菩提山城に移った。斎藤義龍の死後は子の龍興に仕え、織田信長の美濃侵攻を「十面埋伏の陣」で撃退したが、その功が同僚の妬みを招き、主君・龍興の寵臣・斎藤飛騨守に小便をかけられるなどの侮辱を受けた。

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20歳の半兵衛は、弟・久作の病気見舞いと偽り、手練れの部下16人とクーデターを起こし、龍興を城外に追いやった。これは日本版トロイの木馬とも言える策略で、快川和尚の手紙など複数の記録に残る。信長が美濃半国を褒美に城を譲るよう持ち掛けたが、半兵衛は潔く稲葉山城を龍興に返還し隠遁した。

竹中半兵衛が患った病の正体

半兵衛は三木城包囲中に病に倒れた。当時の記録や、亡くなる直前に同僚にしたためた遺書から、彼が患ったのは結核だった可能性が高い。結核は明治から昭和初期にかけて日本で猛威を振るい、「国民病」と呼ばれた感染症である。現代でも適切な治療がなければ死に至る恐ろしい病気であり、当時は有効な治療法がなかった。

天才軍師が残した「最大の遺産」

半兵衛は後継者として黒田官兵衛を見込み、秀吉に推薦した。この人材発掘が、後の豊臣政権の基盤を固める大きな遺産となった。半兵衛の冷静な判断力と調略能力は、秀吉の天下統一に不可欠だったのである。

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