台湾映画の歴史を掘り起こす日本人研究者の半生と原点
台湾映画の歴史を掘り起こす日本人研究者の半生

台湾映画が日本で注目を集めている。5月に公開された『霧のごとく(大濛)』は白色テロ時代の台湾を描き、ミニシアターランキングで1位を獲得。Netflix配信後もトップ10入りした。また、輪廻転生をテーマにした『赤い糸 輪廻のひみつ』も口コミで話題となっている。

こうした台湾映画の日本での認知度向上には、戦後台湾の映画文化を丹念に記録してきた人々の努力がある。川瀬健一氏もその一人だ。彼はもともと映画研究のために台湾へ渡ったわけではない。出発点は宗教や東洋思想、身体と心の関係への関心だった。

1980年、戒厳令下の台湾に初めて足を踏み入れた川瀬氏は、「中国へ行くつもりだった」が、当時の事情で台湾を選んだという。「仙人になろうと思って。空を飛ぼうと思ってね」と冗談めかして語るその言葉から、台湾の庶民生活、映画館、二・二八事件、日本映画の受容、台湾ニューシネマへと話題は広がっていく。制度の外側から資料を集め、人に会い、記憶を聞き続けてきた半生を聞いた。

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東洋思想の雑誌を発行、司馬遼太郎も無料で執筆

大学卒業後に教師となった川瀬氏は、東洋思想を本格的に学ぶため雑誌を発行した。当時は西洋思想が優勢で、東洋思想は軽視されがちだった。しかし、西洋で新発見とされることが東洋では千年前に考えられていたことに惹かれたという。心身論、芸術論、宗教、思想を含めた東洋思想を探求したいと考えた。

東洋思想への興味は、龍谷大学の森龍吉先生の指導がきっかけの一つ。森先生は新聞記者出身で、宗教に限らず幅広い分野を執筆していた。また、新宗教のルポで知られる梅原正紀氏との出会いも重要だった。大学講演後に気に入られ、「東京に来たらうちへ来なさい」と言われ、実際に訪れると右翼から左翼まで様々な人が出入りしていた。学生運動家も右翼団体の人も、互いに追いかけ合うはずの人々が普通に話していた。聞けば意見は似ており、天皇制への賛否だけが違うだけだった。

そこで中国武術研究家の松田隆智氏とも出会った。川瀬氏は武術を経験しており、松田氏から「力がなければないほど強い」という先生を紹介された。最初は意味がわからなかったが、身体と心の関係、心身論への関心が深まった。

雑誌発行を森先生に相談すると、「面白いじゃないか」と賛同し、司馬遼太郎氏を紹介してくれた。森先生と司馬氏は記者クラブで親しかった。その縁で司馬氏や丹羽文雄氏にも論考を依頼した。ただし自費出版で教師のボーナスを使っていたため原稿料は出せず、司馬氏にも無料で書いてもらった。司馬氏に初めて依頼した際、1週間以内に書留速達で原稿が届き、断りの手紙かと思ったという。お礼の電話をすると、「無料で頼まれた原稿は早くしないと忘れるからね」と笑っていた。

五木寛之氏も仏教勉強中に川瀬氏の知人宅に滞在し、その間に川瀬氏の著作を読んだ。五木氏は「川瀬さんが書いた書籍は、皆が気づく10年か20年先を書いている」と評した。

「中国へ行くつもり」が台湾へ

台湾へ行くようになった理由について、川瀬氏は「仙人になろうと思っていた。空を飛ぼうとね」と冗談を交えつつ、ヨガや修行法への関心があったと語る。中国か台湾か迷い、当初は歴史のある中国を考えたが、当時中国へ行くには日中友好協会に入る必要があった。そこで台湾を選んだ。1980年7月、初めて台湾を訪れ、「台湾病にかかってしまった」という。

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当時台湾は「本当の中国を見たければ台湾へ」と宣伝していた。戒厳令下の台湾では、写真撮影がスパイ扱いされる時代だった。しかし川瀬氏は庶民の生活や映画館に惹かれ、資料収集を続けた。二・二八事件の際、映画館が開いていたかどうかといった細かな事実も追い、日本映画の台湾での受容や台湾ニューシネマの巨匠・侯孝賢との交流も語る。

川瀬氏の研究の原点は、庶民の生活を見たいという欲求にあった。台湾映画に引かれる理由は、庶民の姿と歴史の複雑さにあるとし、日本人に見てほしい台湾映画として『霧のごとく』や『赤い糸』を挙げる。