台湾映画史を掘り起こした日本人研究者の半生、原点は「仙人になろうと台湾へ」
台湾映画史を掘り起こした日本人研究者の半生

台湾映画の歴史を追い続け、日本にも伝えてきた川瀬健一さん。その半生には、言葉の壁を越えた熱意と、巨匠たちとの交流が詰まっている。当初は中国語もできず、相手も日本語が話せなかったが、それでも会って話すことを続けた。必要なときには、少し日本語ができる人が間に入ってくれたという。

巨匠・侯孝賢とあわや大ゲンカ寸前

映画『悲情城市』で有名な侯孝賢監督と、ケンカになりかけたエピソードがある。95年頃、彼の事務所に電話をしても返信がなく、何度も続いたため痺れを切らし、直接電話してマネージャーの非礼をなじった。侯監督は怒り、「そんなことは秘書に連絡してくれ」と言う。川瀬さんは「あなたは常々義理と人情の男だと公言しているが、ただの嘘つきではないか。何が義理と人情の男だ!」と言い返した。侯監督は激怒して「来るなら来い!」と怒鳴り、川瀬さんは「今からすぐに行く!」とタクシーで訪ねた。

事務所にはオーディション中の俳優がたくさんいたが、侯監督はもう怒っておらず、「忙しくて……」と言いながら親切に出迎えた。このケンカ腰での初対面が印象に残ったのか、その後は良くしてもらったという。

Pickt横長バナー — Telegram用の共同買い物リストアプリ

黄春明との交流

台湾現代文学を代表する作家で、多くの作品が映画化されている黄春明さんとも親しくしている。90年代後半から会うようになり、数十回にわたる交流の中で、黄春明さんが激しく怒り、机を叩いて席を立ってしまったことが何度かあった。川瀬さんに怒っていたわけではなく、話題に強く反応し、感情があふれ出るのだ。例えば、李登輝さんの選挙のときに中国がミサイルを撃った話になると、ものすごく怒りだしたという。川瀬さんはそれを芸術家としての強烈な個性だと受け止めていた。

そうした時間を重ねる中で、黄春明さんの波乱に満ちた人生についても話を聞くことができた。家出をして電気店で働いていた頃、ラジオ修理のために訪ねた台北旧市街の萬華の女性たちとの会話が後の小説のヒントになったことや、学生時代にラグビーに熱中していたこと、教師になったときに「あのケンカ太郎が教師に」と言われるのが嫌で故郷から遠く離れた山の学校に赴任したことなどだ。

特に印象的だったのは、学校を退学になった時の話。友人に頼んで好きな女性にラブレターを渡してもらった翌日、掲示板に赤点を取った自分の名前が貼り出されているのを見つけた。彼女に対して面目が立たないと思い、その掲示を破り捨ててしまったため退学になったという。いかにも黄春明さんらしい、激しさと照れと人間味が表れた逸話だ。

しばらく連絡が途絶えた時期もあったが、近年、川瀬さんが台湾映画について書いた雑誌を送ったところ、食事会に黄春明さんご夫妻が来てくれた。黄春明さんはその雑誌を持ってきて、「これにサインしてほしい」と言う。大先生にそんなことを言われて、川瀬さんは困ってしまった。薬を飲みながら、2時間半から3時間近く、小説や童話、絵、台湾の自然について話していただいた。高齢になっても希望に燃えて目標に向かって毎日を過ごしている姿に感動したという。

映画ではなく庶民の生活を見たかった

川瀬さんはもともと映画が特別に好きだったわけではない。台湾へ来たのも映画研究のためではなかった。しかし、台湾は戒厳令下で社会のことを知ろうとしても見えない部分が多かった。川瀬さんは台湾の庶民の生活を知りたかった。そこで、当時博物館の近くの交差点でVHSを売っている人から、台湾映画らしいものを毎回何本か買って帰ったという。

Pickt記事後バナー — 家族イラスト付きの共同買い物リストアプリ

映画から過去の暮らしの細部が見える。川瀬さんはそう語り、台湾映画の歴史を掘り起こし続けている。